平成16年秋の褒章において、当所会長 皆藤勝也は、
これまでの交通安全活動の推進に寄与したことについて評価され 藍綬褒章 を賜りました。
これもひとえに皆様方のご支援の賜物と、深く感謝申し上げます。



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30年前史
教習所誕生からの10年間を振り返って
元栃木県指定自動車教習所協会長(S37〜S46任意団体時代) 皆藤勝也


 県指定自動車教習所協会が社団法人として創立してから30年になる。それより前の10年間程、私は任意団体としての同協会にかかわってきた。そんな経緯から当時を振り返って何か書いて欲しいという話があった。その頃の保管資料が散失してしまってないということなので、止むを得ず記憶を辿ることにした。
 なにしろ、慌ただしく業務を開始し急成長していった業界の10年間のことである。記録や文献などによる裏付けも不十分であり、思い違いや記憶違いがあるかもしれない。この点はどうかご容赦願いたい。

・自動車教習所の始まり
 戦後の交通を仕切ってきた「道路交通取締法」に変わって昭和35年12月、「道路交通法」が施行された。新法は、指定自動車教習所制度の新設という内容を含むもので、いわば、初心運転者の育成を教習所に任せるという画期的な制度であり実にこのことによって指定自動車教習所は次々と誕生していったのである。
 その背景には、当時のモータリゼーションの進展に伴う運転者需要の増大という時代的要請があったことは言うまでもない。
 私のところでも新法が施行されたちょうどその頃、現在地に宇都宮中央自動車教習所を設立、公安委員会の指定を目指して人的、物的体制の整備充実を図りながら初心運転者の養成業務を開始した。コースは砂利道で当時の一般道路もそうであったが隔世の感があった。それでも運転免許を取りたい一心の人たちが朝早くから夜遅くまで熱心に練習に励んだ。何人か仕上がると指導員が中戸祭の試験場まで連れていって受験させた。指導員はその様子を観察してミスや改善点を記録し、落ちて返ってくると補修訓練をしてまた受験させた。豊かではなかった当時のことである「どんなに厳しくてもいいから早く受かるようにして下さい」という人が多く、指導員のことを「運転手さん、運転手さん」と呼びながら教わる方も「運転手さん」も一生懸命で、合格すると共に喜び感激したのであった。
 このような練習所時代が半年ほどあって、昭和36年6月20日、県公安委員会から栃木県自動車学校(交通安全協会)に次いで2番目(私立で1番目)の指定自動車教習所として指定をうけた。

・教習生気質
 当時は、運転免許の経験・年齢及び一定の経歴等があれば指導員又は検定員の資格を得ることができた。教習課程も教材も教具も十分とはいえない環境の中でのスタートであった。それでも公安委員会指定(公認)の重みとでもいうのであろうか、宇都宮ばかりか県内各地から免許取得を目指して教習生が押し寄せ、夜が明けないうちから夜遅くまで、総勢10人ほどの指導員や職員は文字どおり不眠不休で働いたのである。夜の10時に教習が終わると、もう翌朝の順番待ちの列ができた。寒い季節には、藁のうとか藁ぼっちとかいう田圃の積み藁を燃して暖を取りながら夜を明かす教習生のグループもあった。指導員たちは、そういう教習生の姿を見るに忍びないと言っては、夜が明けないうちから教習を始めたりした。
 今でこそ18歳の教習生が中心であるが、当時は中年の働き盛りの人たちが多く明るくおおらかで、どんなことにも平然として耐えながらガッツのある人たちであった。体を動かすことを厭わず実に勤勉なのである。雨上がりのコースに砂利を敷くのを当たり前のように手伝ったり、真夏のコースに指導員と一緒になって水を撒いたりした。それでいて、次第に「運転手さん」から「せんせい」へと勝手に呼び方を変える器用さも要領?も心得ていた。あるいは、教習の内容も指導員の資質も何かしら「運転手さん」では違和感を感じさせるようになっていったのかも知れない。
 そのころの日本経済は、日進月歩の勢いで急成長の一途を辿り、モータリゼーションの進展と足並みを揃えるように教習所業界もまた充実発展を遂げていった。当時の教習生気質は、当時の我が国の勢いを象徴するかのようであり、どんな障害でも払い除けて突き進む逞しさと強かさを感じさせた。つい先日も高齢者講習のために来所したお年寄りが、一緒に訪れた仲間と茶を飲みながら「私もここの卒業生なんだ。孫も今教習に通っているはずだ・・・」と懐かしそうに思い出話をして帰っていった。教習所というものは、こういう卒業生との出会いを縁として親から子へ子から孫へと支えられて今日があることを痛感しないわけにはいかないのである。

・任意団体としての教習所協会の活動から
 「全指連30年のあゆみ」によると、昭和36年11月18日に「全国指定自動車教習所協会連合会」の創立総会が開催され、加入指定教習所数は187となっている。
 この辺のことについては定かではないが、全指連からの呼び掛けに応じ、その傘下にあって県内教習所の運営と連携を図るためには、本県業界の推進母体を結成しなければならないという状況になった。
 昭和36年代は、県自校と宇都宮中央の2校であったが、翌37年には相次いで 栃木 宇都宮戸祭 東武宇都宮 佐野市立(昭57廃校) 足利 氏家 間々田 の各教習所が指定になったことから、それに未指定の4所を加え10数所をもって同年12月10日「栃木県指定自動車教習所協会」(任意団体)を設立し、会長に皆藤勝也、副会長に杉山政吉、植平 旦の両氏が就任した。事務局は当時、宇都宮市台新田(現今宮4丁目)にあった自動車運転免許試験場内に置き、斎藤誠作事務局長はじめ、2、3人の方々が事務処理にあたっていたように思う。
 翌、昭和38年には 小山 栃木県南 真岡 宇都宮 安佐 今市 陽南(現栃交)が相次いで指定になり、組織の増大に伴い次第にいろいろな問題も派生するようになった。
 料金の問題、指導員や検定員の確保をめぐる争いや資質の問題をはじめ、教習の改正等に対応する案件など協会として果たすべき役割と責任も多くなっていった。
 一時期、市立の教習所も存在したが経営基盤が異なるところから低料金で営業するようになった。業界の健全な運営と発展のためには放置できない問題であり、早速、副会長や事務局長とともに市長に会い、直談判をして解決したこともあった。
 また、教習所の設立指定の在り方についても、県内の地域的バランスと将来を見据えた展望に立って計画的に進める必要性を感じて、協会幹部と真剣に議論し、当局にも機会あるごとに要望したものである。
 当時30代だった私は、警察署長を歴任された副会長や管理者など多くの先輩方の叱咤激励を受けながら、自ら設置者と管理者兼務の責任を果たすため毎晩遅くまで仕事をしたものであり、そうしなければならない時代でもあった。
 協会長の職にあったお陰で、こうした多士済々の先輩方や県外の我が国の教習所業界をリードした一流の人々との交流を持つことができたし、有難い薫陶を受けることもできた。協会の幹部はもとより、設置者、管理者との会合もしょっちゅう持たれ、その都度酒を飲み交わしながら本音を聞いたりもした。こうした中で、教習所は公共的使命を果たすべき役割と責任を有するものであり、経営との調和点に立ってよりよい教習を追及しなければならないという理念も次第に確立していった。
 教習業務というものは、集合教育としての学科教習を除いては、一人の指導員が一台の車を消費しながらマンツーマンを基本として教習を行う。生産性も効率も決してよいとはいえないサービス業であるが、常に教習所の使命を忘れることなく、営利に走ることもなく、理念に徹して業界は健全な発展を遂げてきたと思う。

・人みな我が師
 「道路交通取締法」から取締の二字を削除して「道路交通法」とし、同法は新時代に即した道路交通の基本法として生まれ変わった。その時「交通の歴史が動いた」と私は思う。それは、部分的改正や手直しではどうにもならないところまできていた道路交通の変化への対応であり、免許行政の改革もまたその延長線上にあったものであろう。
 陸上交通の先進国に学びながらも、我が国の驚異的な経済発展を支える陸上交通において、その運転者需要の増大という当時の課題に、世界に例がないといわれる日本固有の「指定自動車教習所制度」をもって対処した英知には敬服するばかりである。こうして、わずか数年にして1000校を超える教習所が誕生し、教習所もまた社会的期待に応えてその責任を果たしてきた。
 人は人から学びながら成長する。人との出会いによって人生もまた変わっていくものと思う。教習所業界に身を投じ、30代の若輩にして、経験も前例もない「教習所協会長」をお引き受けして10年。いい時ばかりもないが、また悪い時ばかりもないものである。協会長なるが故に人との出会いにも恵まれた。公安委員会のご指導のもと、設置者、管理者等の諸先輩をはじめ指導員や教習生との出会いの中で多くのことを学び、それを糧としてお陰様で何とかやってこられたのだと思う。
 「人みな我が師」−つくづくとそう思う。
 このようにして、試行錯誤を繰り返しながらの10年間はあっという間に過ぎ去っていった。そして昭和47年、教習所協会は社団法人となり新たな時代を迎えたのであるが、その際私は、会長職に永くとどまるのはいかがなものか、との考えからその職を辞し、協会は人心を一新して再スタートを切ったのである。以後私は、顧問として影ながらエールを送り続けている。
 今、未曾有の不況と少子化現象の影響を受け、教習所業界を取り巻く環境は厳しいものがあるが、教習所に与えられた使命と責任を果たしつつこの苦難を克服すると共に、教習所協会ともども益々の発展を祈念する次第である。

宇都宮中央自動車教習所会長


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